インテリアフェスティバル

 

「湯布院町のまちづくりとゆふいん文化」  中谷建太郎氏講演

 


記:松下

セミナーは中谷氏のゆったりとした、気負いのないおしゃべりで、興味深いお話が聞けました。
湯布院町は人口一万二千人の小さな町なのに観光客が年間三百六十万人も訪れるそうです。

観光売上も二百億円というたいへんな数字なんですが、よそから来たみやげ物店が、よそから持ってきた(ベトナムやフィリピンとか)商品を売って、結局、地元を通らない、しみこまないで頭の上をお金が廻っていることに危機感を感じ、自分たちの町をもっと自分たちで動かそうと長年観光に携わってきたそうです。

まち並みを考える時に、日本の古い町並み(倉敷、京都、金沢、高山・・・)を参考にしても亜流、まねでしかなく独自性をもとめるために、海外に目を向け、ドイツ他ヨーロッパのまち並み、観光に対する考え方を参考にするために、ドイツに1ドル360円の時代に50日間滞在して体感してきたそうです。
(宿泊は、国の難民受け入れの政策の時期でシーツと枕カバーがあればほとんどタダで泊まれたので長期の滞在が可能だったとの事)
町並みも地域に根ざした造り方で、職人の技術を受け継いでいけるような配慮も必要で、有名な建築家がデザインを押し付けるかたちでは、うまくいかないとも言っていました。

これからの日本の旅行、リゾートは「ワクワクからホッとへ」だそうです。
今までは、ここで一泊してワクワクして、次の日はよそで一泊してワクワク、と次から次へと、刺激をもとめて、せっかく旅行するんだから、朝も早起き、ハードスケジュールもお構いなし、という形で旅行、観光が行なわれてきました。

しかし、経済も上向きにならないこのごろは、そんなにあせらないで、もっとゆったりしましょうということで、一泊から同じところに二泊三泊と言う風に変わってきました。
ところが、今度は旅館が一泊客ばかり相手にしてきたものだから三泊もするお客様に、料理の工夫ができない、できても、同じ場所での食事ではお客様も飽いてしまうといったことがこれからの宿泊の課題になるそうです。

お客様も、同じ宿なので、朝は近くを散策したりしたい、そうなると、まち並み、まちづくりと観光とは切り離せなくなり、地域全体で考えていかなければと、変に納得したようなお話でした。

このレポートも、セミナーが済んでから依頼されて十分な書き留め、メモもなく、多少のニュアンスの違い、勘違いな記述はお許しください。


記:藤嶋

地域の特色を残すことが重要

今現在日本のあちらこちらで行政の合併が盛んに行われています。
わが湯布院町もご多分に漏れずいま今日現在その合併について決定が下されようとしています。たぶん負け戦でしょう。(合併する。)
私(中谷氏)はそれをいい事ではないという立場なのですがなにが問題かといえば今ある町は長い年月を掛け形作られてきた訳ですが同時にそれにともなう技術も修繕などの仕事を通じて蓄積されてきている訳です。そこに合併という無理やりな統一を計ると今までの建物を壊し新しいものを作るといった流れがあちこちに生まれてくる訳です。
すると街もその影響を受け今までの技術が必要なくなるといったことになります。例えば町役場を都会の建築家の先生に頼むといった場合にその建築家のもつ技術、中央の技術が押し付けられ街に昔からあった伝統技術は捨てられていきます。どうしても画一的な形に向かい街の個性は消えてゆきます。一度消えた技術を取り戻すことは容易ではありません。
ヨーロッパのような歴史の重みを感じる町並みは消えてゆきます。

  
家庭の記憶が継承されていかない

上記したように画一的な町並みに急激に変化して行くことで問題になることにそこに住む人々の共通の記憶が途絶えるということもあります。
代々慣れ親しんだ町並み、祖父が見て、父が見て今時分が見ている街の記憶がそこで途絶える訳です。それは家についても同じで、同じ柱を見て同じ梁を見て育ちそれによって共通の意識を無意識の内に培ってきたのですがそれが途絶えます。

  
生の声が大切   

街づくりで大切なのは行政が机上で考えることではなく人々の生の声が一番大切です。役所が一番重要と考えるのは「管理しやすい」ということです。自然、均一化されたもの、合理的といわれるものに向かっていきます。
そのことによっていろいろな事についての「遊び」の部分はどんどん失われてゆき余裕のない、殺伐とした世の中になってゆきます。

   
町並みにもお金を 

イタリアなどの町並みを見ると歴史を感じると同時に非常に整った印象を受けます。それはそこに住む住人たちがお互いに町並みを守るために取り決めを作り守っているからです。他方日本でそのようなことしようと思ってもなかなかうまくいきません。全国的な法律である建築基準法が絶対のものとして巾をきかし狭い地域の都合は問題とされないからです。
たとえば家並みを1m道路から下げようと相談してもひとり反対者がいれば実現できません。
もう一つの問題として国は公共のもの(道路、橋)にしかお金を出しません。家並みを整えるためにお金がいるとしてそのようなものには、お金を出さないのです。このあたりのこともイタリアなどと大きく違います。

湯布院の街づくり計画 

湯布院では大正時代に東京の著名な専門家本田朔太郎(?)氏に頼み街づくりを計画しています。
ながく眠っていたのですが第二次大戦後発見されました。多分最初のところは本田氏が下記後の方は街の人たちがまとめたものと思います。なぜなら街の非常に細かいところまで書いているからです。
その中で湯布院は農業だけでは生きていけないので温泉を核とした街づくりを進めるべきだということを提唱しています。
       
本田氏はその中でこんなことも書いています。
「道路はまっすぐじゃない方がいい。曲がり角があり向こうから話し声が聞こえ、「だれかな?」と想像しながら進む。そして「ああやっぱりあのひとか」とあいさつする。そんな心の高鳴り、抑揚が生まれる街づくりをするべき。」

35年前にヨーロッパ視察

35年前にドイツを50日くらい視察しました。どうしてそんなに長い間視察できたかというと当時チェコスロバキアにソ連が侵攻し、難民がドイツ、オーストリアに大量に入ってきたわけです。そのときその難民を支援しようという民間の人たちがいてシーツを枕カバーを持参すればお金を掛けずに長期間いられたというわけです。
     
そのときドイツの温泉も視察したのですがびっくりしたのは、その滞在日数の長さです。日本では一泊二日が当たり前の時代でしたがその当時で3週間くらい滞在します。
また各家庭がその家の歌を持ち客である私たちの前で合唱してくれたことにも驚かされました。家を中心として社会が成り立っているということを改めて感じさせれました。
       
そのときから日本でももっと長期に滞在できるような街を作りたいと思って活動してきました。

    
「わくわく」から「ほっとしたい」

日本の高度経済成長期に人々は「わくわく」したいと思い観光地に出かけました。当然今でもそういう施設はありそれなそれでいいのですがその当時は「わくわく」だけだった訳です。湯布院はそんな中で「ほっとしてい」人たちを受け入れる方向をめざしました。
       
別府に対抗したということもあります。金沢、倉敷といったようなところをまねてまくまでもまねでしかないといった事もあります。
      
一泊二日で無く二泊、3泊と滞在してもらえる街を目指しました。そのためには街に魅力が無いといけません。例えば、長くいると宿の中だけでなく外でも食事をしたいと思うようになります。そうするとレストランが町に必要になります。
そして次には地元の人と交流し合える場を求めます。レストランで言えば地元の人にも受け入れられるレストランが必要になります。地元の図書館に行ってみたくなるかもしれません。そう考えていくと町全体を魅力のあるものにしていかなければならないことに気づきます。
滞在期間を長く取ってもらえるようにするには街づくりそのものを考えていかないといけないことになる訳です。それで行政との話し合いが必要になる訳ですが価値観の違いは大きくなかなか進まないのが現状です。

その他、まとめ

● 法律より生の声が大切
● 「わくわく」より「ほっとしたい」価値あるももと考える。
● 小さい単位で決められることはその単位で決める。   
  不都合があればその上の単位で相談する。均一な法律の
  押し付けはよくない。
● ヨーロッパは人間関係が家を中心として成り立っている。
● これからは「顔見知りの地域」をいかに構築するかが課題
● 街は家並みが基本
● 産業の見える風景をもつ町並みが良い
● 修繕を通して技術が残る。
● 設計家に頼むと技術を押し付けられる。
● 日本で3週間の滞在に耐えられる温泉地はない。板場が耐えられない。
● 記憶が継承されていく街づくりがよい。
● 町並みの修復にも国の予算を